富士山講座 山梨日日新聞の特集から
時空の旅 富士山 Mt.Fuji 3776m
 救い求めて
■富士講  地域の変容が衰退に拍車
 東京都品川区に富士講「丸嘉講」がある。主要行事の「山開き」は、かつて7月1日だったが、現在は1日に近い日曜日に行う。講員の勤めの関係だという。当日は白装束姿の講員が富士塚で「拝み」、山頂に登って遥拝する。江戸の風俗を現在に伝える行事として区無形民俗文化財に指定されている。

雲海の中にぽっかりと浮かぶ富士山頂。その姿は神々しくさえある=山日YBSヘリ「ニュースカイ」(NEWSKY)から
雲海の中にぽっかりと浮かぶ富士山頂。その姿は神々しくさえある=山日YBSヘリ「ニュースカイ」(NEWSKY)から
 同区南品川、榎本治郎さん(80)は丸嘉講の先達。72歳まで毎年富士山に登拝していた。体調を崩した数年前からは登っていないが、「品川富士」の山開きには欠かさず参加する。

 「富士講の経典『お伝え』を唱えることができるのは私だけ。若い者に教えてはいるが、なかなか大変」。10人から20人ほどが参加するが「ほとんどは私の身内」だという。

 江戸時代に「江戸八百八町に八百八講」といわれ、関東、東海、信州などに広がった富士講。当時の新興宗教である。世話人の家に集まり、富士山に祈る。町の中に生きていた信仰。横町のそこかしこで、みなが「救い」を求めて祈った。

 「以前は正月の初拝み、お山へ出発する時の立ち拝み、無事帰ってきた時のお礼拝み、12月の冬至拝みも続けてきた。寂しいが、今の時代を考えれば仕方ないことかもしれない」。榎本さんはそう話す。

 埼玉県鳩ケ谷市、富士信仰研究家の岡田博さん(77)によると富士講は「戦前まで各地で隆盛だった」という。

 衰退させていった理由の第一は戦災。富士講は独自の集会場を持たず、先達の家などに集まった。空襲が富士講の人たちのよるべき場所を奪った。

 戦後の産業構造の変化で、家業を持つ人たちが激減したのも一因だという。「富士講は勤め人の集まりではなかった。商売人や職人が少なくなったため、講が難しくなった」。さらに先達の高齢化と後継者不足、核家族化などが拍車をかけた。地域社会が大きく変容する中で、富士講は町から姿を消していった。

 岡田さんは1988(昭和63)年、一度はなくなった地元の講社「丸鳩講」を、小谷三志翁(1766〜1841年)顕彰会として復活させた。小谷は富士講身禄派の祖・食行身禄の教説を日常的な倫理観に高めた「不二道」の開祖だ。

 「当初は170人ほどいたが、現在は100人を切っている」。宗教色はない。宗教色を出すと、参加を拒否する人たちもいるという。年に1回、富士山登山もあるが、それは「観光ツアー」だという。

 現代の日本社会に命脈を保っている富士講の一つの姿が浮かび上がってくる。

◎江戸時代に隆盛
行衣と呼ばれる白装束姿で山開き行事に参加する富士講の人たち(本文とは関係ありません)
行衣と呼ばれる白装束姿で山開き行事に参加する富士講の人たち(本文とは関係ありません)
 富士講は富士山を信仰する人々の集まり。開祖は戦国時代の行者、長谷川角行とされる。その後、後継者として村上光清、食行身禄が現れた。身禄は1733(享保18)年に富士山7合5勺の烏帽子岩で入定。江戸時代後期、富士講は江戸の町に爆発的に拡大した。幕府による弾圧の対象にもなり、1795(寛政7)年には禁止令が出されるほどだった。宮崎ふみ子「民衆宗教のルーツを求めて−富士講」によると「明治時代になるとほとんどの富士講は教派神道の扶桑教・実行教・神道修成派、あるいは神道事務局管轄下の丸山教・富士山北口講社の傘下に入った」という。
2006年7月1日掲載


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