江戸期の富士登山 料金徴収、何のため

江戸期の富士登山 料金徴収、何のため
 世界文化遺産に登録された富士山。2013年夏、これまで以上に大勢の登山者や観光客が訪れることが予想された中、山梨、静岡両県は富士山保全協力金(入山料)を試行徴収、2014年夏から本格実施している。実は、富士講が盛んだった江戸時代にも「山役銭(やまやくせん)」という料金を登山者から得る制度があった。

 富士吉田市歴史民俗博物館によると、山役銭は富士講信者の宿坊を上吉田地区で営んでいた御師が集めた。戦国時代は武田氏に上納していたが、江戸前期の1680年代に御師に徴収の権利が移った。

 江戸時代の文書をひもとくと、山役銭は富士山の各登山道で徴収し、吉田口の金額は122文。内訳と取り分は細かく定められ、(1)身を清めるためのおはらい料32文(御師)(2)5合目山小屋の休息料32文(山小屋16文、御師16文)(3)山頂の仏像のさい銭料20文(富士山本宮浅間大社14文、御師6文)−などとされた。

 122文のうち、金鳥居近くで富士講以外の一般登山者に対して宿泊先(御師の家)を紹介した「改め所」の維持費4文を加え、御師の取り分が78文になる。御師は当時、9合目の鳥居や階段の保守も担っていたという。

 富士講信者は改め所に立ち寄らないので山役銭は宿泊先の御師の家で一括で支払い、一般登山者は改め所で支払った。122文と引き替えに登山切手を受け取り、それを持って登山に出掛けていった。

 江戸後期、山役銭や宿泊費を含め、富士登山にかかる費用は1人当たり1366文ほどだったという。幕末の万延元(1860)年に1両は7000文ほどに相当した。1両あれば大人1人が1年間食べる米が買えたため、富士登山の費用を食事代に置き換えると約2カ月分に当たる。

 富士講の受け入れを長く支えた山役銭だが、明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)により、さい銭料など徴収の名目となっていた仏像がなくなるなどし、徴収されなくなった。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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