富士講中興の祖

富士講中興の祖
 富士講中興の祖といわれる江戸時代の行者食行身禄(じきぎょうみろく)は1671年、伊勢の国一志郡川上(現在の三重県津市)の小林家に生まれる。13歳で江戸に出て、17歳の時、富士行者の門弟となり、その時神告によって、伊藤伊兵衛と名乗り、後行名を食行身禄と言った。

 食行身禄は富士行者の異端派6世で、当時正統派6世村上光清は富有で大名光清といわれたのに対し、身禄は貧乏で、乞食身禄・貧乏身禄といわれたが、彼の信心と信念は深く堅固で、1733年7月、富士山7合5勺の烏帽子岩で、吉田の御師田辺十郎右衛門の心からの介添により、断食入定し即身仏となる。この断食の間、毎日教えを説き、それを田辺十郎右衛門に記録させたのが「三十一日の巻」で、富士講の教典の1つとされた。

 身禄の名声はとみにあがり、後に身禄の教を体した講社が富士講の大勢を占めた。また行名身禄は、仏教の弥勒を取ったわけではなく、その教え衆済度志したにほかならない。入定した食行身禄の遺品は、田辺十郎右衛門に伝えられ、その中3べん書御身抜・行衣・野袴が1961年12月7日山梨県有形民俗文化財に指定されている。

 食行身禄を祭った身禄堂が富士吉田市上吉田3丁目にある。また北口本宮冨士浅間神社には、富士講の教えを説いた長谷川角行や食行身禄、同神社を改修した村上光清の3人が祭られている祖霊社がある。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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