太宰治と富士

太宰治と富士
 1909(明治42)・6・19−1948(昭和23)・6・13。小説家。青森県の生まれ。本名津島修治。

 東京帝国大学(東京大)仏文科中退。1936(昭和11)年、短編小説集「晩年」を出版して作家生活にはいる。この「晩年」には太宰文学の可能性の全部がナイーブな形象のうちに蔵されており、不幸な時代に生まれ合わせた魂の苦悩は、傑出した青春文学を結晶させている。

 1938(昭和13)年の9月から11月にかけて、御坂峠にある天下茶屋に滞在して、創作に没頭していた。このころは、初期から中期に転換する曲がり角にあたり、太宰の生涯の最も重要な時期であった。そして11月には井伏鱒二の紹介で、甲府市水門町の石原美知子と婚約し、甲府市に移って翌年1月、結婚式を挙げ、御崎町(美咲一丁目)に新居を構えた。9月、甲府を引き払って東京都下三鷹に移る間に健康と落ち着きを取り戻し、多くの秀作を残している。この間の事情は、同年に「文体」2、3月号に発表した「富嶽百景」に詳しい。

 戦後の太宰は、流行作家となって多くの作品を書いたが、再びデカダンな生活に戻り、1948(昭和23)年「人間失格」などを書く。同年6月13日深夜、太宰は料理屋で知り合った山崎富栄と共に玉川上水に身を投じ、39年の生涯を閉じた。2人の遺体は、くしくも太宰の誕生日である19日に発見され、以後この日を「桜桃忌」と呼ぶ。1978年から毎年6月に「山梨桜桃忌」が天下茶屋で行われ、追悼と講演会が開かれる。

 太宰の死後、井伏らによって御坂峠に「富士には月見草がよく似合ふ」と刻まれた碑が建立されるが、太宰は御坂峠からの富士について「ここから見た富士はむかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった」「あまりにおあつらえむきの富士である」「まるで、風呂屋のペンキ画だ」「どうにも註文どほりの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」(以上「富嶽百景」より)と、評している。

 しかし同じ作中、バスで「おや、月見草」と指さす老婆と隣り合わせ「三七七八メートルの富士山と立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合ふ」と書いている。ここが太宰文学の真骨頂なのだろう。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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