横山大観と富士

横山大観と富士
 近代日本画の発展に大きな役割を果たした横山大観は1868(明治元)年、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた。幼名を秀蔵・秀松と名乗ったが、後に母方の姓である横山を継ぎ、名前も秀麿と改めた。

 東京美術学校の第1期生として、同校校長であった岡倉天心や橋本雅邦に学び、卒業後は同校の助教授となるが、1898(明治31)年、天心の辞職とともに退職し、日本美術院の設立に参加した。

 天心没後は下村観山、菱田春草らと再興美術院を主宰し、同院の中心画家としてだけでなく、東京画壇の重鎮としても活躍。ぼかしを多用して空気や光を表現する技法「朦朧(もうろう)体」による新日本画を試みるなど、生涯にわたって意欲的に作品に取り組んだ。1937(昭和12)年には、第1回文化勲章を受章。代表作に「無我」「瀟湘八景」「屈原」「生々流転」などがある。

 大観は再興美術院時代から富士山を主題に描き始め、生涯に約1500点もの富士山作品を残している。「富士山を描くことは、富士にうつる自分の心を描くこと。つまり己を描くことだ。富士は春夏秋冬、朝昼晩、いずれも趣がある」と語っていた大観にとって富士山は永遠のテーマであった。

 雲海から顔をのぞかせる富士山を描いた『夏之霊峰』、凜とした富士山を描いた『冬之霊峰』をはじめ、『春之霊峰』『秋之霊峰』の4点が山梨県立美術館に、また『群青富士』『富士山』『日・月蓬莱山図』の3点が静岡県立美術館にそれぞれ収蔵されている。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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