江戸時代のガイド 富士山への道中案内

江戸時代のガイド 富士山への道中案内
 江戸の日本橋から甲州街道をたどり、大月、吉田を経由して富士山へと向かう道を「富士山道」と呼ぶ。近世には、江戸の富士講の講員が、この富士山道を通って富士山の山頂を目指した。

 1700年代前半に富士講の講祖を務めた食行身禄が、富士登山の本道を北口とし、吉田御師の宿坊を拠点としたことから、吉田(現在の富士吉田市)はそれまで以上に隆盛することになる。富士山道を利用する講員が増えるにしたがって、富士までの案内書やガイドブックが数多く刊行された。

 1860(万延元)年に発刊された「富士山道しるべ」もそのひとつ。日本橋、府中、八王子、上ノ原(上野原)、猿橋、谷村などの宿をたどりながら、富士山頂までを案内している。江戸時代の講員は、このガイドブックをたよりに御山(富士山)へ向かって、江戸から歩き続けた。

 富士山道しるべは、江戸から山までの距離について、「富士山迄三十六里」としている。現在の国道20号と国道139号が主な経路だった。富士山のふもとからは、浅間社(北口本宮冨士浅間神社)や富士登山門などの施設情報、それぞれの合目の案内も紹介されていた。

 最終目的地である富士山の頂上については「周囲は一里ばかりある。いくつかの峰が屹立(きつりつ)している。これを八葉と称して仏号を割り当てているが、その数は八ではない−」と紹介。山頂のそれぞれの峰をはじめ、山に建てられている堂や石碑、石造物、池などの由来まで事細かに記録する。

 案内書には、山での忌み言葉「山中の語」や禁止事項である「山中の禁」なども掲載されていて面白い。例えば、南から登り北へ下ったり、北から登り南へ下ることを「山を裂く」、扇を持って登ることを「風を招く」といい、禁じられていた。

 富士吉田市は「富士山道しるべ」をもとに、1998年から『御山参詣〜「富士まで歩る講」』を行っている。かつての富士道を踏破するイベント。かつてのルートとともに、富士山信仰の歴史もたどっている。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
当ウェブサイト上の掲載情報、写真等の無断複写・転載を禁止します。