富士信仰

富士信仰
(ふじしんこう)

 平安朝末、僧末代上人の大日寺建立が、富士山頂の史実に現れた第1の建造物ともいうべきで、大日信仰と富士信仰はともに考えねばならない。

 修験の有力な道場は、主として寺院を中心とするものが多く、この歴史を無視するなら、富士山信仰を理解することにはならない。静岡県の富士大宮浅間神社の宮司も、村山三坊、大鏡坊などの許可なくしては登拝することができず、富士宮からの村山登山道を避けて北口に回り、山梨県の河口湖畔大石村(現・富士河口湖町)の名主(山名主=8合目以上の山小屋および登山道の管理者)宅を宿泊所として北口から登拝することを慣例としていた。修験の勢力が全山を支配していたことがわかる。北口にも小御岳、お中道、道了権現社などがあり、円楽寺などが2合目には夏期出張していた。明治新政以降廃仏毀釈運動により、修験道は影を没するに至った。

 1572(元亀3)年、富士講の開祖長谷川角行が富士行者として一般の信仰を集め、1733(享保18)年、食行身禄および村上光清が出て派を唱え、2派にわかれて各自登拝を続けることにより、宗教的自覚を体得することを主眼とし、在俗のまま宗教活動をすることを特徴とした。先達のうちに多くの有力な指導者が輩出し、関八州、信越、奥羽地方に及び、日本民族共通の基盤、民間信仰のうちから富士山信仰は組織化されたことがわかる。

 明治に至り、宍野半によって富士講の大同団結統合が企てられ、扶桑教として1882(明治15)年に立教している。宍野半の活躍は多く吉田の御師を従え、その講社の先達を糾合することにあったが、富士全山の信仰はついに昔日の面影をとどめるものはなくなった。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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