富士山噴火のたびに移住

富士山噴火のたびに移住
 東日本大震災後、地震や津波の歴史への関心が高まり、過去の自然災害の事例に学ぶことの重要性が叫ばれるようになった。富士山噴火についても同様だ。以前開かれた富士山の火山災害と縄文人をテーマにした講座では、富士吉田市歴史民俗博物館(ふじさんミュージアム)の篠原武さんが、縄文期を中心に富士北麓での火山灰や火砕流の被害の状況について解説。同市周辺の遺跡発掘例からは当時の人々と災害との関わり方が見えてくる。

 篠原さんによると、縄文時代の富士山麓周辺の竪穴住居跡は、5600〜3500年前に最盛期を迎え、富士山の火山活動が最も活発化した3500〜2200年前には減少する。以降、平安時代まで非常に多くの溶岩が流れ込んでいることが分かっている。

 縄文期の人たちは、富士山噴火が激しい時は富士山周辺を離れ、収まれば再び同じ場所に住んでいた様子がうかがわれるという。「災害が多数ある場所に住むということは、いつ何時でも、移動(避難)するという覚悟を持っていたということ」とみる。

 富士吉田市内の遺跡では、縄文時代の地層から火砕流や火山灰の形跡が発見されている。上暮地新屋敷遺跡(同市上暮地)では、当時の主食の一つであるクリの木が火山灰で焼失して炭化したとみられる跡が発見されている。上中丸遺跡(同市小明見)では竪穴住居跡が火山灰で埋まった後、新たに穴が掘られていた。噴火が収まり、再度住み直した形跡だとみられる。

 一方で、焼かれた人骨は発見されていない。篠原さんは「火山活動が活発になる予兆を感じた段階で集落を移動していた」と推測。災害の間を縫うようにして周辺で何度も住み直していたと考えられる。

 一般的に火山災害で多くの犠牲者が出ていることが確認できるのは定住が始まって以降。例として、宝永噴火(1707年)の際は数多くの文献から、通常の暮らしを取り戻すのに50〜100年ほど必要だったことが分かる。

 篠原さんは「狩猟・採集文化の縄文時代は、火山活動が活発になる期間を避けてほかの場所へ移動している様子を強く感じる。復興に時間がかかっても住み続けるのが今の定住社会の避けられない道。それでも富士山が噴火することを前提に暮らしていくことが、過去から学びうる教訓だろう」という。

山梨日日新聞社 YBS山梨放送
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