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2002.6.21 所属カテゴリ: ふじさんクエスト / 文化・芸術 /

絵画に見る富士山

 「不二」「不死」とも書かれ、古代から霊峰としてあがめられてきた富士山。平安時代から絵画に登場し、浮世絵、文人画、さらには日本画、洋画、版画、工芸とさまざまな美術作品のモチーフになってきた。信仰、名所、象徴…。時代とともに人々の向き合い方は変化しながらも、富士山は時代を超えて描かれ続けている。

 富士山を描いた現存する最古の作品とされるのが、平安時代の1069年に絵師・秦致貞が描いた「聖徳太子絵伝」。聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って富士山を越える場面は有名だ。鎌倉時代には、時宗の開祖・一遍上人の伝記や「伊勢物語」などの文学作品の物語絵として描かれた。

 室町時代になると、富士山そのものが信仰の対象になり、曼陀羅(まんだら)に多く描かれるようになる。古代から中世の日本人にとって、富士山には自然に対する畏怖(いふ)や神仏に対する神聖な思いが集約されていた。

 富士山の絵画を語る上で、「富士山、三保の松原、清見寺」という三つの名所が盛り込まれた雪舟の風景画は欠かせない。安定した構図と東海道からの美しい景観が人気を集め、江戸時代の多くの画家に踏襲された。山頂に三つの峰を描いた「三峰型」「万年雪」のイメージも定型化していく。

 名所絵として人気をはせた富士山。将軍家の御用絵師だった狩野探幽は、雪舟の基本を守りながらも、京都と江戸を往復する中で自分の目で見た実景を描き出した。江戸時代中期以降、画家たちは西洋画の影響を受け、より実景を追求していく傾向が強まる。一方で、心の中で感じる富士を描く人も出てきた。

 富士山信仰が広がり、富士講の人気が高まると、役者絵と美人画をモチーフとしてきた浮世絵も富士山に着目。富士登山ブームに伴って詳細な案内図が登場したほか、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」はヨーロッパ印象派画家にも影響を与え、富士山を一躍世界に広めた。

 開国によって多くの外国人が日本を訪れるようになると、「日本らしさ」という自意識が芽生え、日本を象徴する山として海外に発信されるようになる。富士山をモチーフにした工芸品が多く作られ、万国博覧会に出品。絵画も世界に通用する油彩画で描かれるようになった。

 多くの富士山を描いたことで知られる横山大観は、伝統的な日本画の技法を駆使して日本一の山として描いたが、戦時下では国家の象徴を意識した作品が目立つ。太陽と富士山をシンボリックに描いた「日出処日本」などは、国威発揚を促し、国民の意識を一つに高める狙いがあったとされる。一方、川端龍子や山口薫ら富士山に反戦の意味を込める画家もいた。

 戦後になると、画家それぞれの個性を前面に出し、さまざまな技法で自分の富士山を描くようになった。甲府市出身の木版画家・萩原英雄は25年をかけ、千変万化の様相を呈する富士山の姿をとらえた連作「三十六富士」を完成させた。富士山は「心の故郷」であり、「三十六富士」は「故郷を、父母を恋うる、私の心の詩である」と著書に記している。

 富士山を描かない画家はいないと言われるが、横山大観ほど富士山と結びつく画家はいないという。大観の言葉が残る。「富士を描くことは富士と向き合っている自分を描くことなのかもしれない」。平安時代から連綿と描かれ続けてきた富士山は、時代の鏡のように人々の心を映し続けている。
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