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2018.2.18 所属カテゴリ: 山日紙面で見る富士山 / 2月 /

富士山へ縁りの仏像 80年ぶりに頂上へ

 南都留郡河口村の笠井さんの自宅に安置保存してある赤銅製仏像は富士山頂上にあったものだが明治初年、神仏混合を許さないというお布令が出た際、富士山頂から持ちおろして来た旅人があらたかな仏さまなので取り潰すのはもったいない、幾らでもよいから買って置いてはくれまいかとの話にのって笠井さんの祖父が預かった。三代にわたり、屋内に安置してビシャモンサマと呼び、いわゆる茶灯番のつとめを続けて来たが、富士山内に納められたものを長くとどめて置くべきではないと今年の山開きに山内の適当なところへ納め、富士講の人々などの信仰の対象にしたいと吉田口登山関係者へ申し入れた。

 ◇・・・仏像は赤銅製で、高さ一寸九分の台上に高さ三寸八分のししの臥像があり、その頭上に右足をかけ背に左足を置いて立ち火炎の□蓋を頂き左手に舎利、右手に剣をささげた総高一尺四寸七分、目方二貫匁余り、台には奉納富士山頂上薬師岳と、右側に武蔵国足立郡与野町井原平八芳章、また左側に丸英同行の文字が刻まれ裏側には文化九壬申年六月吉日、鋳工粉川市正作と銘が刻みつけられている。

 ◇・・・今からおよそ140年前の作品だが、何事か悲願の主が一万二千尺の高峰へ背負いあげて安置したという信仰の姿を忍ぶ笠井さんは自分で山へ運んで安置したいと待機している。この話に吉田口関係者は喜んで次のように語っている。

 明治初年のお布令は吉田口ばかりでなく富士講の人々をかなり驚かせた。信仰など考えない小役人はこの時とばかり、貴い作品でも何でも構わず片端から放り出し叩き潰してしまった。その混乱時に心ある人のはからいで、しかも心こめて保存されていたものがたとえ一つでも山にかえることは実に嬉しいことであり、笠井さんの親子三代の心尽くしに対してはほんとに感謝の言葉もない。この夏その仏像をお迎えする時が、大鳥居立て替えの御縁年にあたることも深い因縁といえよう。【当時の紙面から】

(1950年2月18日付 山梨日日新聞掲載)
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