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2019.1.26 所属カテゴリ: 山日紙面で見る富士山 / 1月 /

富士宮→富士ヶ嶺→本栖→古関→中道 古代文化の道くっきり

 西八代郡上九一色村に、20カ所の古墳遺跡があることが同村誌編さん室の調べで明らかになった。これらの遺跡は古代ルートに沿って点在しており、静岡県富士宮市ー上九一色村富士ケ嶺ー本栖・精進ー古関ー中道町と続く文化流入ルートが実証された。特に富士ケ嶺と本栖湖畔の遺跡は「富士山ろくの形成研究にもつながる貴重な資料」として注目されている。

 富士ケ嶺からは2点の土器が見つかり、ほぼ完全な形に復元された。1点は弥生時代後期の「つぼ形土器」で近くの住民が15年前に発掘し、自宅に保管していた。村誌編さん室の調査で、周辺から弥生前期の土器片も見つかっており、集落があったことが確認され南二条遺跡と名付けられた。

 もう一点は、古墳時代初期の「かめ形土器」で、やはり住民が30年前に発掘して保管していた。この土器は別名「五領式土器」。村誌編さん委員として2年前から遺跡調査している日本考古学協会会員・萩原三雄さんによると、五領式土器は県内で20カ所から発掘されているが、富士ケ嶺の土器は東海もしくは畿内(きない)地方の影響がみられる。「県内でつくられた土器ではなく、持ち込まれたもの。この点では県内初の貴重な土器で古代ルートを裏付ける」という。

 富士ケ嶺は富士西ろくの、標高900-1300メートルの高冷地。昭和21年に海外引き揚げ者ら300世帯の開拓団が入植し、酪農を営んでいる。「寒い上に水の便が悪く、先住民がいたとは考えられなかった」と地元では驚いている。萩原さんは「これまで富士山ろくは静岡県側しか研究されていないが、山梨県側にもかなり遺跡がある手ごたえを感じた」と話している。

 また、本栖湖、精進湖畔からも新たな遺跡が見つかった。本栖湖東岸の「湖水遺跡」では、水辺の溶岩の下から2カ所にわたって数十個の土器片が発掘された。古墳時代初期から平安時代にかけての土器片で、遺跡より後に溶岩が流れたことを物語っている。湖水のすぐそばに遺跡があったことから、当時の本栖湖は今と同規模か、むしろ小さかったと考えられ、考古学以外の面からも注目される資料となっている。

 このほか注目されている新たな遺跡が、梯地区の山中の「蓬沢遺跡」。40度の急斜面から、平安時代のものとみられる須恵質土器と土師器(はじき)が発掘された。炭化物が一緒に出土していることから信仰に関係するとみられるが性格は不明。県内でも珍しい遺跡として注目を集めている。

 萩原さんは「これまで村内には3カ所の遺跡しか確認されていなかったが、縄文時代から平安時代まで古代ルートに沿って遺跡が次々に確認された。学問的に非常に貴重なデータが得られたので、学会でも発表したい」と話している。

 村では、調査が終わりしだい遺跡を公開する方針である。 【当時の紙面から】

(1985年1月26日付 山梨日日新聞掲載)
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