三浦環と富士
晩年を山梨県の山中湖畔で過ごし、日本人として初めて国際的な名声を得たオペラ歌手三浦環(1884年2月22日-1946年5月26日)。
1904年、東京音楽学校卒業、帝国劇場専属としてオペラ界に進出。1928年以来しばしば欧米に渡ってその名を知られ、ロンドンでの初演以来、世界各国でオペラ「蝶々夫人」の主役を演じるなど活躍した。後に三浦歌劇団をつくった。1932年6月15日、甲府・県議会議事堂で感銘深い独奏会を開催。
1944年、太平洋戦争の激化に伴い、山梨県山中湖村に所有していた別荘に疎開。湖畔で発声練習をしたり、子どもたちに歌や踊りを教えるなど、地元の人たちとも交流があったという。没後は「富士山の見える湖岸で母と眠りたい」という遺言により、同村平野にある寿徳寺に埋葬された。
墓碑には「うたひめは つよき愛国心を持たされば 真の芸術家とはなり得まし」という自筆の詩が刻まれている。
村では1988年に環の墓の前に、その業績と村とのかかわりを記した英文併記の碑を建立、側面は音符をデザイン。 また、山中湖文学の森公園内にも歌碑がある。
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2023年2月、三浦環の銅像が山中湖交流プラザきららに設置され、除幕式と記念セレモニーが行われる。世界的な名声を得た環の功績を多くの人に知ってもらおうと村が制作。
銅像はきらら内の「湿生花苑」に設置し、高さは台座を含め2.5メートル。太平洋戦争の激化で村に疎開していた際、山中湖畔で毎朝行っていた環の発声練習の声が対岸まで届いたとの逸話をもとに、右手を上げ、高らかに発声している様子を表現した。台座の銘板に刻まれた「声」の文字は村に残された環の筆跡だという。
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