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2022.12.12 所属カテゴリ: 山日紙面で見る富士山 / 12月 /

富士登山者から通行税

ただし室町-徳川時代のこと

 いまから400年前の弘治7年から明治初年まで、富士山の登山者は一種の通行料金を払っていた。これを“富士役銭”(ふじやくせん)とよぶが、河口湖畔船津の富士博物館副館長伊藤堅吉さんは9年にわたる調査を終わってこのほど“富士役銭”の貴重な資料をまとめた。来春2月、東京で開く民俗学会に研究成果を発表するという。

 室町時代に「山手」「川手」などと呼ばれていた一種の通行税があり、旅人が関所を通過するときにこの役銭を役人から徴収されていた。弘治7年には黒駒、河口、船津、吉田などで富士山に登る富士講の信者から役銭をとることが奉行所から許され、これを富士山の御師(おし)は“富士役銭”と呼んだ。

 伊藤さんの調査によると中宮と呼ばれた吉田口5合目に、御師が弘治年内18軒の役銭小屋を開き、登山者から金を取ったが、この金は社寺奉行所にいったん納めてから御師の手もとへ一部還元され、山開きや神社の祭典、造営費などに使われていたという。

 ところが“役銭出入り”と悪評があったくらい、あちこちの登山口で無制限に通行税を徴収したため、永録2年(1559年)には苦情が出て時の郡内領主小山田信茂守が役銭の半減令を出したことが古文書の調査からわかった。この時の役銭は登山者1人あたり240文(1両は4000文)にも達し、半減令によって120文に減らされた。

 また大宮と須走口では頂上富士噴火口の内院で役銭の配分をめぐって激しい紛争が起こり、本県側でも吉田と河口が対立して流血騒ぎを起こしたことも記録されている。夏の登山期だけが収入の季節とあって御師たちにとっては役銭の収入がバカにできず、しまいには社寺奉行所に納める役銭を御師が自由にするようになったためいろいろ問題があったようである。

 この役銭制度も明治維新の宗教改革で幕命により廃止され約300年にわたる役銭制度に終止符を打ったが、富士山という観光資源をめぐって昔と今をくらべてみるのも興味が深い。 【当時の紙面から】

(1962年12月12日付 山梨日日新聞掲載)
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