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2018.5.21 所属カテゴリ: 山日紙面で見る富士山 / 5月 /

溶岩流の下から土器 史前と有史時代の遺物が重なりあい

 富士山の溶岩流の下から時代のかけ離れた2種の土器破片が同一場所で発見され、考古学上注目すべき資料となった―富士吉田市仲町石材業福島稔君(23)が、このほど同市緑ガ丘下吉田第二小学校南西300キロの溶岩断層下を掘った際、断層の下側と赤土の境目付近から5個の土器破片が出てきた。うち2個は厚手の素焼き土器、先住民族の縄文式のものだが、他の3個は薄手で硬質、表面に黒と朱の上薬〈釉薬〉らしいものを塗ったものが見られる。

 縄文式土器は富士山溶岩流下から十数年前に都留高校校庭で発掘されて以来、富士山噴火(最初の記録では2400年前)のその以前に先住民族が岳麓に住んでいたことを立証した資料となったが、今回発見した地域西丸尾(高さ8メートル、延長数100メートルの溶岩流帯)が形成されたのは1100年前といわれ、土器に上薬を塗る製法へ文化が進んだ民族とすれば有史時代の祝部式とも思われ、19日都留郷土研究会員萱沼英雄、渡辺亮、市教育委員会の羽田光氏らが出土品について研究したが、西丸尾との時代が合わず、結局さらに研究を進めることになった。

 有史前の縄文式のものと有史時代の土器とが同一場所に埋没されてあったことは2つの時代の長い年間を隔たった土地の上に住居が重なったのか、あるいは古墳副葬品の露出物か、またこれとともに幾度か噴火を続けた富士山麓の人類生息考証上からも興味ある資料となった。【当時の紙面から】

(1954年5月21日付 山梨日日新聞掲載)
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